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D.ショスタコーヴィチ核

交響曲第四番

​ID:DSH-SY4  Model:P04-0

  自分のことを話せと言われたが何から話せばいいのか、というところだ。

迷うならば兄弟のことでも、自分の作曲者のことでも、断片的に記憶している過去の記憶でもかまわないという。

過去の記憶と形容しているが記録、のほうがしっくり来るしこれはようするに、機関が用意したデータにはない、おそらく曲そのものにまつわるような、曲である俺が人格を既に、完成当時から獲られていたとしたら記憶することができていたであろう、記録、出来事、のことだろう。

これを過去の記憶と呼ぶのは些か他と分別がつかないので俺はこれも感情や心やら魂やらのことを聖典からのギフトと呼ぶようなそういう呼び名をつけた方がいいと考える。

こういうのを作るのが得意な機関の事だから俺がこの文書を提出したあたりですぐに議題に持ち上がると、その程度の期待はしている。

  それで、俺についてだが実際、俺は自己を見つめるという癖がついているように思う。

どこか習慣付いたようにふと一人になり静寂が訪れ、何の外部の刺激を取り入れようと思わないとき、自己が今どんな状態か、過去どんなことがあって何をしたかを振り返り、この体の、およそ生命と呼べるか否かの瀬戸際をさ迷う存在について思考を開始する。

そのためにまずいつも、曲擬の仕組み、についておさらいをしておくのが毎度前提となる。

曲擬は人格、行動をプログラムによって作成されており、これから記憶するもの、先ほど言った機関が用意したあらゆる文献、知識、そして呼称の定まらない記憶と、このあたりはすべてデータとして認識、管理する。プログラムはこれらのデータや今後の経験の干渉を受け一部破綻したり新たに構築されたり、個体によって違うギフトの特性によって変質したりして曲擬に個性を与える結果となっている。

これがそもそも曲擬としての個を確立している前提というべき仕組みだ。これを踏まえおれはいつも自己を考える。

  現在の状態についてだがこの文書の執筆現在では心身ともに良好。

外傷もなく、倦怠感眠気にも見回れておらず視界も晴れて、痛みももちろんどこにもなく昨日のこともすぐに思い出せる。

晩飯はミートソースのパスタで、フォークにパスタをくるくる巻くのが面倒で、味はまぁいいのだが作業的に好みではない。

うどんも啜るのにてこずるのだが、ラーメンやら素麺の、汁に使った潤滑のいい細い麺はわりと好きだしうどんももう少し細ければまだ許容範囲というところだ。

ミートパスタのほうも、味は嫌いではないしむしろあの手の味は好みではあるものの、下手をすると衣服に飛ぶし、机にも飛ぶし、口の回りもソースがつくし、何かにつけて不恰好になるのが歯がゆくて珍しく黙って食べる数少ないメニューの一つだろう、とソースを作った7番の奴から言われたのも、よく覚えている。

7番もそうだが俺は基本的に兄弟は好きだ。

兄弟を危険にさらすかもしれない、兄弟に手間をかけるかもしれない人間のことを、いまいち仲良くなろうとかそういう気になれない。

機関の連中はまだいいとして、ホールだの演奏会だの、レッスンだので出くわす人間にどんどん新しいものが増えていくにつれて、こう、個別に対応するのをひとまずはあきらめた。深く触れてみればまぁわからなくもないのだがなんでもそう深く触れようとは思わない。第一身の回りにすでにたくさんの曲擬と、兄弟に囲まれているのに人間のことにまで手が回る……?頭がまわる?ような容量におそらく曲擬は、少なくともおれはできていない。

それと兄弟は好きだと言ったが5番は別だ。あいつはべたべたと鬱陶しいし殴っても反撃は滅多にしてこないが何故か笑顔を向けてくるから気色がわるいし、こちらが何を仕掛けても反応が面白くない。俺のカンにさわる事をしょっちゅうしでかすし、そのくせそれを学習しない。他の兄弟の羨望も大きな役割もショスタコ交響曲の……いやショスタコ曲のすべての代表のように取り扱われる。

ショスタコ曲擬の中では一番最初にできたのだから当然と言えば当然だろうが、それはさておきとにかく面倒なやつだ。だが嫌いな訳ではなく、俺にばかり構おうとするせいで常に俺の虫の居所が悪くなるわけで、あいつが悪いというわけでもなく、いいおもちゃではある。

だが俺はあいつにいろいろと、勝てないものが多すぎるので腹が立つ。いや、鬱陶しいのと気持ち悪いのはあいつが悪い。

おそらく、ショスタコ曲の多くは皆口を揃えて「兄弟は戦友」と口走るだろう。かくいう俺もそうで、7番のあたり実際に戦時下作られた曲はその意識がより強いだろう。

それでなくても、さまざまな状況下におかれた母上を、データとはいえ知っている以上は、そう考えざるを得ない。

俺の言える兄弟観というのはこのぐらいだ。

  あとはそう、過去の記憶、のことだが、おそらくどの曲擬もそうだろうが過去の記憶というのはぼんやりと浮かぶような曖昧で朦朧としたイメージでしかなく、なぜそうなのか、なぜそういう風になるのかは俺たちの知ったことではないし、そういう映像なり音なりが焼き付いているとしか言いようがない。俺の場合はずっと暗がりにいて、ちらちらと母上……作曲者であるショスタコーヴィチの姿と兄弟の姿が映る。母上の姿はわりと鮮明で、深い表情までは読み取れないが俺を見たり、横顔だったり、後ろ姿だったり。

俺の目線からは兄弟は、ぼんやりとした何か、だ。

色は今の姿と似ている気がするが形がぼんやりとしすぎていてどれが誰かは判別しがたい。

そもそも今のような人の形どころか本に押し潰されそうなそういう小さな、何かの塊のようなもやのようなものが、今の曲擬専用言語の音声のような音を鳴らして母上とやり取りをしている。

俺自身はそれを出しているのを記憶していない。

かわりに、でいいのかわからんが母上の大きな手元はよく映る。

ペンを持った手。俺には大きく見えた。

他の作曲家のを知らないから、相対的に大きいかどうかというわけじゃなくて、俺にとって。過去の記憶もこのぐらいだ。もう話すことはないはずなんだが、まだ原稿用紙の最低ノルマが少し残っていてどう処理するか迷っている。まぁ案外こうやって文字を書くのは苦ではなかった。

文を読み返して、俺はこんなに落ち着いてものを述べられるのかと関心すらしている。

普段の俺はもっとかっとなって声をあらげることが多いし、もしくは何も発しないかで返事すらしないことも多いし、それは意図的に無視しているのがほとんどだから当たり前なのだが。

もしかしたら特定の話題であればこの文たちのように淡々と喋ることもできるのかもしれない。

俺は今体を得て、曲擬になって2年かそこらで、そういうコミュニケーションを取ること自体まだ不慣れなのかもしれない。

 

2006年8月ショスタコーヴィチ核交響曲第4番

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