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これは初代第七聖典継承者、芦港上総(ロコウ カズサ)による聖典にまつわる手記である。

 

聖典の生成については未だ謎ばかりだ。しかし最初に魔王が手にした……正しくは魔王となる人物が魔王となるきっかけとなった、現在第一聖典と呼ばれる書物の存在が発見されたのは1912年のことであった。魔王となった彼は聖典の存在を公表し、自身が魔王となった経緯をも公表し、日本国内に城を構え隔絶された領域を作りあげた。これが1918年のことである。

彼は元々、黒い雨と共に太平洋に降ってきた物体によって形成された遺跡の研究者で、海底遺跡で発見された聖典も研究の対象であったが魔王となったのはその成果でのことだ。彼が魔王となって間もなく第一次世界大戦は勃発。魔王城領域はその魔物の生産という特異な能力を戦力として提供せよと国家に打診されたがすべて断ったという。

彼の聖典の研究は魔王になって以降も続く。そして彼は聖典の内容からこの続きがあると推測し、魔物を手配し探させていた。そしてある時、書斎に一冊の本が置かれていたのだ。ついに他の聖典の発見と至ったと彼は思ったが手下の魔物たちは誰も魔王の書斎には入ることはできないはずなのだ。

出現が謎に満ちた書物だったが魔王はこの書物を聖典と確信する。最初の聖典と同じ記方、時折日本語まで現れる混沌とした言語集体、そして何より最初の聖典の末尾で"興った"、あるいは"創造された"ものがその書物では"崩壊"していたのである。ただ最初の聖典とこの書斎に置かれた新たな聖典の内容には明らかに間が存在することもわかるものだった。魔王はこの新しく発見された聖典を転覆の書、魔王になるに至った最初の聖典を始点の書と呼んだ。

魔王はまた他の聖典があること確信し手下の魔物たちに探させた。それも前に増して大規模に。しかしその影響か、運悪く人間に見つかった魔物たちは勇者を名乗る者に駆除されてしまうことがあとをたたなくなった。魔王は魔物そのものも増強したが勇者は目敏く魔物を見つけては駆除してしまった。

そして魔王にとって良くないことが起こる。その勇者たちによって他の聖典が発見されてしまったのだ。勇者が自ら聖典を捜索していたのか、聖典を発見した魔物を駆除して手に入れたのかどうかは定かでないにしろ、魔王がいちばん渡したくない相手に渡ってしまったのだ。勇者たちは魔物の駆除と聖典の発見に躍起になった。

聖典にはそれぞれ違うある一定の"効力"がある。使う人間によっても違いはあるが魔王が魔王になったのは最初の聖典、始点の書の効力……もとい始点の書によって創造成しうる願望機によって"願いを叶える"ことだった。願望機製作者にのみ聖典が作用する仕組みのようで魔王はこれを駆使しあらゆる願いを叶えてはきたが、ある一定の規定と法則があることがわかり乱用は出来なくなったのだ。同じように、勇者側が見つけた聖典にも"効力"があると仮定した。

故にむやみに"効力"が乱用されることを恐れ、自身が魔王となり城を構え領域を隔絶し聖典を収集しようとしたのもその聖典が危険なものだと判断したからだった。事実魔王は他者を殺めることはおろか魔物にさえ一切の世俗との干渉を絶たせ、なるべく人目につかぬよう聖典を半ば封印する形を取っていた

勇者が聖典を手にしてしまったのは最大の誤算であり危機であり、ついに魔王は勇者にのみ聖典の強奪、先取の妨害のためならば争いもやむ無しと判断した。勇者と相対する構図が完成してから、魔王城に勇者が乗り込んでくるまでさほど時間はかからなかった。

魔王はもとはただの研究者である。魔王となり魔物を生み出す力こそ手に入れたが城も武器も聖典の願いを叶える効力で完成されたものだった。聖典は何かを殺傷する願いは断じて叶えはしなかったし、そもそも魔王自身この聖典の効力を何かを創造する以外には使いたくなかった。暴力や争いなど好まないひとだった。

丸腰の魔王は一発の銃弾と一太刀の斬撃によって命を落とす。多くの魔物と城と魔王となっても添い遂げた妻と、魔王になる以前から自分を尊敬してくれた息子を残してあっけなく死んだ。残された者は、城から勇者を一匹たりとも逃すことなく、勇者の帰還を知らされない世間は魔王は依然存命であり転覆の書を隠し持っていると思っていたことであろう。魔王の力と所有していた聖典は息子に継承され、敵討ちを完遂した後、魔王の妻は自らの首を捌き自害した。

息子は父の意思を継ぎ、聖典の回収に努めた。ただやり方としては聖典そのものは勇者に回収させ、次に魔王城に向かってくるであろう聖典を所有した勇者を殺して奪う算段だった。二代目魔王は着々と戦力を増強しつつ、勇者によって使用された聖典の効力を研究しながらその時を待っていた。

結果としては予想通り聖典を発見し勇者同士で奪い合い殺し合い勝ち残った猛者六人が聖典を持ち合わせて魔王城にやって来たのだ。迎え撃つのは魔王と精鋭の家臣たちの合わせて12名。聖典の効力にはより人智を凌駕する力を操る勇者に対し、魔王軍は戦闘訓練を施し武装した程度の人間である。

魔王は勝てると踏んでいた。だから魔物で迎え撃たなかった。家臣たちは魔王が自ら選んだ友人とも呼べる仲間で、誰一人として死なせたくはないかけがえのない存在だった。だからこそ勝たねばならなかった。勇者六人との戦いで家臣は5人死亡、勇者は全員殺害。勇者の聖典六つは魔王の手に見事収まった。

各聖典への見物を深め、ある程度の研究を行った後、魔王を魔王にした始点の書を第一、勇者から獲得した六つを内容の時系列順に第二~七、そして既に先代によって秘密裏に隠蔽され所在がわからなくなっていた、転覆の書を第八として、第一、第八を二代目魔王が、他の六冊を生き残った家臣それぞれが所有することとなった。

魔王は各聖典を家臣に渡したあと、自害した母の形見と先代の遺品である聖典をもって行方を眩ませ、家臣六人はその後聖典の効力をある程度行使しながら代々血脈を維持し聖典の継承を行い、政府はこの六家を聖典六家として厳重な管理を行った。

六家は年に数回、当代頭目での会合を廃墟となった魔王城の一室で開く。廃墟というよりは残った数少ない魔物たちの住処となっており、六家の人間以外は出入りできない状況になっている。先代魔王の死亡は1927年、勇者を討ち六家に聖典が渡ったのは1939年の事である。

六家に渡った聖典は勇者の所有時代、その効力によって呼称がつけられていた。

二条に渡った第二は創造の書、保坂に渡った第三は偽正義の書、平織に渡った第四が暴力の書、戸越に渡った第五が氾濫の書、石廊崎に渡った第六を復活の書、そして私芦港に渡された第七は永久の書と呼ばれていたのだ。

六家はお互いの聖典の効力を詳しく詮索はせず、同じ死線をくぐった同志として、時に協力しあい、ときに叱咤し合う関係と協定し、これを代々血脈と聖典とともに受け継ぐことを盟約とした。

ここまでが、六家に伝えるべき聖典にまつわる紛れもない史実である。

そしてここからは、私の私文であるが、当時の事を忘れてはならない。伝えなくてはならないと私は考える。

私がこれを記す役割を任されたのは、私の父の代から魔王城に支えていたからだろう。私も父も魔を生み出す魔王に支える魔に転じた神官などではなく、彼が、善き行いを、人間としての善良なる意思を見失わないための標としての役割をつかわされてきた。二代目魔王となった彼も、父親を殺されるまでは私の善き兄のような存在であった。彼の父親である先代魔王が襲われたとき、私の父も身を呈して先代を守ろうとして勇者に斬り殺された。同じく住み込み医師として家族で城にいた石廊崎もまた、この時に父も母も亡くしている。弾丸を受けた先代を手当てするべく駆けつけて、あとは知る通り。私や石廊崎、二代目は魔物たちに守られながら地下室に逃げ込み、二代目は聖典と聖典で成しうる願望機の自作を持って、おそらく起こることを覚悟していたことだろう。魔物たちの号令によって父たちの死を告げられたあとの、二代目の行動も、あのときの願いを聞き届けた聖典も願望機も、私は恐ろしくてしかたがなかった。

二代目は徐々に軍隊としての魔王軍を強固にしていった。そして才能の勇猛そうな人間も招き入れては兵士として雇った。父を殺された当時16歳だった彼は、立派に王のつとめを果たしていたと思う。

そして時は流れて1939年。私も腹を括った。魔物の群れが先行しているとは言え、相手は幾重もの同胞の死体を積み上げて来たであろう気狂いの戦士たちだ、魔王を倒すこと、聖典を魔王から奪うことしか考えていない。そのためにそれらしい理由もどうとでもこじつけてしまう。魔物の群れを突破し我々と魔王の前に表れ、嬉々として武勇を語ろうし、魔王に罵詈雑言を浴びせ魔だの悪だのと否定する彼等を見たとき、魔というのは真にこういうものを指すのだと確信した。これらに聖典を持たせていてはならないと。

戦いは魔王さえ存命であれば、奴らの聖典由来の力は我々には通用しないものだった。だがあちらとて歴戦の戦士。はじめ、阿須加の首が飛ぶまでは我々も勝てると確信していた。こちらが一人勇者を殺せばこちらもまた一人殺される。勇者をすべて殺し城の外に捨てたあと、阿須加、酒々井、遍路、江洲、影辺……彼等五人の弔いをして丁重に葬った。我々六家の魔王城での会合は、いわばただの墓参りなのだ。先代、奥様、父、たくさんの使用人たち、魔物たち、戦士たち、みんなあそこに眠っている。勇者たちが我々のいる玉座前まで来るまで、何度も門前の兵士たちに加勢しようと、魔物の群れに加勢しようとしたものだ。だがすべて魔王は私を止め、その怒りで勇者を討てと言い続けた。あのときの彼がなにより魔王らしかった。総力戦なのだと、自分たちはここで待たねばならないのだと、ずっと言い聞かせていた。

そして勇者を討ってすぐ、西のほうでは大戦の火種がおこっていた。我々の体制も何もかも整わないままこの国は戦争に向かっていったのだ。我々は既に政府に保護対象とされた重要人物として疎開して、国の同胞すらもたくさん見殺しにしてきた。こんなにたたかえるのに、既にもう人殺しなのにだ。もういくらでも汚すことの出来る身だというのにそれもまたままならないまま今度は敗北を味わった。もうこんなおもいはごめんだ。

我々は力あるものである以上、争いを制する秩序であるべきだ。この行使しうる力は抑止力であり、平和維持への供物であり、脅威の排除を役割とすることだろう。幾度となく我々の間で理解し、かみ砕きあっても意味はないのだ。我々の子に、孫に伝えなければ幾度の苦汁も遺恨もうかばれないのだ。どうか後世の六家の末裔たちよ、この意思を堅く継いでくれることを願う。

 

1963年8月25日 芦港上総

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